中南米のひまじん。

不登校→大学院→青年海外協力隊→パナマ=ひまじん。スペイン語勉強中。そんな暇でしょうがないひまじんが、意識高いフリしてなんかする。

「アルバイト」のコト

こんにちは。

8月になりましたね。世間で必死で働いてる方もいるなかで

僕はアルバイトをしています。

 

大学で教員免許の更新講習をやっているので

それのバイトです。

 

 

まぁ、仕事内容は1時間受付して

1時間出席チェック等々の雑務して

のこり5時間は読書と課題などなどの時間になるという

なかなか美味しいバイトです。

 

でもね

 

でもね。

 

僕が大学生(学部生)のころ、

それはそれはそれなりにアルバイトをしてました。

朝から夜中までって時もありました。

 

その時は稼いでやるー!って思っていたのです。

 

でもね

ある人に言われたのさ。

バイトってのは、稼いでるんじゃない。

自分の売っているんだ

 

みたいなことを。

 

僕は結構ショッキングでした。

そうかぁ。稼いでると思うとプラスしかない気がするけど

売っていると考えると少しマイナスも入ってくるというか

自分を時給いくらで売っている・買われている

そういうこと。

 

 

そこから僕はバイトしまくるのをやめようと思ったし、

のんびり暮らしていこうと思ったんです。

 

今のバイトも本当に暇でいいんだけど

でもその代償に売っている時間は少なくない。

 

1日のバイト代と

1日の価値

見合っているのかなぁ。。。と思うことも。

 

でも仕方ないという面もある。

だってお金がないと授業料も払えないし、

生活費も払えない。

 

そういうギリギリの

葛藤。妥協。納得。諦め。

 

そんな日々に生きているのです。

 

僕は働きたくないなぁ。

いや、それは多分家事とか、畑仕事とか、

サッカーとか、そういうのだったらどんなきつくても

多分、やっちゃう。下手したら給料が最低限でもやっちゃいそう。

 

逆にどんな給料高くてもやりたくないことは極力したくない。

 

甘いこと言ったっていいじゃないですか。

だって、みんなそう思ってんじゃないか。

 

答えはきっと奥の方。

心のずーっと奥の方

ヒロトさんも歌ってます。

 

 

とかいろいろ言いながら

思うんだよね。

 

結局

帰り道

100万落ちてたら

むちゃくちゃテンション上がるよね。

 

 

大学院生活。のこと

こんにちは。

とっっっっっっっっても久しぶりにブログを書こうと思います。

 

最後に書いたのが大学生時代で、

あれやこれやの間に卒業して、兵庫の山奥の大学院に入院しています。

 

同年代が働きだしました。

 

長野で僕におにぎりをくれ、

原付で車に喧嘩を売り、病院送りになり、

教師になるんだ!と沖縄を飛び出したものの

結局、教員免許は全然取れず、教師にならず

僕と様々な経験を積んだ彼は、

サラリーマン生活をしているらしい。

 

彼についてはまたじっくり書きます。

 

ま、なにが言いたいかって

時代の流れは早いですね。ってことです。

 

気づけば22歳と5ヶ月。

大人になりました。

子供の頃なんて自分が22歳になるなんて思ってもいなかった。

ずっと僕は小学生とかで死んでいくのかと思っていました。

ところがどっこい。もう22です。

 

あ、ちがうちがう。こんな話がしたいのではなくて、

大学院生活の話でした。

 

 

相変わらず僕は僕らしくやっています。

変わったところといえば敬語を使えるようになったこと。

 

でもそれ以外は僕のままです。

もちろん入学式は尖ったまんまで行きました。

マフラー巻いて私服で行って、

夏目漱石の三四郎を読んでました。

その結果あだ名が三四郎になりました。

僕の人生の中で一番気に入ってません。ふぁっくです。

 

院生室にこもるようになりました。

おかげで室長というあだ名がつきました。

僕の人生の中で割と3番目くらいで気に入ってます。

 

気がつけばもう7月。ちょっとずつ慣れて

友達も幾人かできました。ありがたいことです。

 

周りにはたくさんおもしろいやつがいます。

青年海外協力隊だったひと

記者だった人

教育に一切からんでこなかった人

そういった人たちといろんな話ができるのは

いいなぁ。と思います。

 

蜂がよく出ます。

僕が以前暮らしていたところでも蜂との熱い戦いが

繰り広げられていましたが、今回もまだまだ

蜂との関係はミツのままのようです(うまい)

 

教員採用試験、

みんな頑張ってます。

 

特に応援もしないですが、足も引っ張りません。

自分で頑張ってください。というスタイルは継続中です。

 

 

みんなこうやって将来のことのために頑張っていたり、

現段階で働いている人たちを見ると

すげーなぁ。と思います。

僕はまだまだ学生で、社会のぬるま湯、モラトリアムと比喩される

空間に身を置きます。もちろん年金も猶予です。

 

「どこでやるかじゃない。なにをやるかだ。」

これは僕の尊敬する人の言葉です。

その通りだと思います。

研究者の端くれの卵として

頑張ろうと思います。

 

おれのやる気は低気圧

これは、たいらくんの言葉です。

よくわかりません。

 

 

そんな感じで僕の日々は流れていきます。

淀んだり、増水したり、枯渇したり、

葉っぱが流れたり、ばしゃばしゃしたり

穏やかな流れじゃないかもしれないけれど

それでもどっかからどっかへ

流れていくのです。

 

それで

 

いいじゃないですか。

 

「仕事」のこと

あっという間に二ヶ月ぶりになりました。

さぼりました。すんません

  

さて、仕事についてなんですが、最近思うことがあるのです。

 

僕は今バイトをやめてまぁうだうだしてるのです。

まわりからニートかとか暇人だなってわいわい言われたりもする。

 

でもね、僕の生活は基本的に誰かのためにご飯を作って、掃除もしてる。

自分だけなら妥協してもいいんだけどちょいちょいといろんな人が来るからする。

誰かにあげようなんて思ってプリンやゼリーとかもふと作ったりする。

 

でね、考えてみたらこれってお金をもらってないだけで割と働いてんじゃないかと。

 

いや、これは単なる屁理屈を並べて自分を正当化しようとしてるんじゃなくて

もっと深い「仕事」について考えたいと思ってる。

 

仕事は誰のためにするのか?

 

という話はよく聞くかもしれない。例えば教師を目指す人は生徒のためだとか言うかもしれないし、他の人は自分の経験や学びになるかもしれないから自分のためとも言うかもしれない。

僕はどっちでもいいと思う。

情けは人のためならず

についても解釈が二つあるようにそれは自分なりの意味でいいと思う。

で、なにがいいたいかっていうと

正反対のことをいいながらも共通項があるよね

それは「〜のため」ってとこ。

つまり仕事とかそういうものはなんかの為にやってるんだということ。

自分でも家族でもどっかの誰かのためにする。いわばそれがやりがいってことにつながるのかもしれない。

そういうやりがいが無い仕事っては根本的に存在していないと思う。

しかしその人の意識でやりがいは消えたり、増えたりもする。

 

うーん

ややこしくなって来たから初心に戻る

 

つまり仕事ってお金をもらえばいいの?

 

機械のようにぼーっとただ、時を過ごす仕事と

お金はもらえないけど家族のためにせっせとご飯を作る

お母さんは仕事として認められないのか?

 

僕は仕事ってのはお金を稼ぐものとしてのモノではないと思います。

よっぽど主婦の毎日の仕事のほうがお金はもらえなくても価値がある。

 

お金よりも価値がある仕事。

そんな仕事をしたい。そんな風に向き合って行きたい。

今自分が目指してる職業にそんなふうに向き合えるのか日々模索中。

 

人生は急いでもいいけど焦るなって言いますけどその通りです。焦ったらもったいないぜ。

いろんな人の話や世界を聞いてみて、少しずつ選んでいきたい。生きたい。

 

すっきり。