中南米のひまじん。

不登校→大学院→青年海外協力隊→パナマ=ひまじん。スペイン語勉強中。そんな暇でしょうがないひまじんが、意識高いフリしてなんかする。

大いなるひとりごとPART2 神さま編

            ぼくの大いなるひとりごと。PART 2

               ~神さまはいるのか~

              

 これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。特に興味のない人は読まずに燃やしてファームの肥料にして下さい。

 

 さて、今回は神さまという特に結論もない話なのでひとりごとにはうってつけですね。ぼくは神さまを信じていません。しかし、僕の知り合いにキリスト教の方がいます。それで日常的に神さま論争が勃発し、ケンカになります。神の話題でケンカが起きる。まさに世の中の縮図ですね。

まぁ、それはさておき、本当に神さまはいるんでしょうか。

 デカルトがこんな質問をあなたに投げかけます「あなたは完全か?」それに対し、あなたはどう答えるでしょうか。

おそらく「不完全だ」と恥ずかしげもなく答えるでしょう。するとデカルトはこう言います、「不完全ということは、相対的に完全なモノが存在するということだ。よって神はいる」と。なるほど。

ぼくはデカルトを読んで以来、神さまいるじゃん!と思いました。

ですが、「神は死んだ」でおなじみのニーチェはだいたいこんな感じのことを言います「悪からもっとも離れた私たちは善である。という思考(いわゆるルサンチマン)は人間の弱さが生み出す虚構である」と。

かつてキリスト教信者は社会的弱者でした。そこでその人たちは今、貧しくつらいから天国に行ける。権力持ち、金持ちは悪だから私たちは善だ。という反転した思考を用いて自己を保っていたみたいです。

さて、ここでデカルトに戻りますが、先ほどの不完全があるゆえに完全があるといった理論もこれに当てはまるのではないでしょうか。だとすると不完全を認識したからといって完全が存在するとは限らないと考えることもできそうです。

ニーチェを読んで以来、僕は神さまやっぱりいねぇじゃん!と思うようになりました。

 

しかし、最近思うのです。神さまの存在を信じることと、神さまを信じることは違うのではないかと。存在として、確かにいるかもしれません。だとしても、それによって自分の行動が何かしらの変化が起きるわけではない。

つまり、存在としてBelieve (信じる)と自分を預けるTrust(信用する)には差異があるのではないかと考えました。

あと、このように話題に挙がるということはすなわち概念としての神の存在は疑いようのないことだと言えます。つまり、「ポロリンクス」(今僕が適当に作った言葉)は議題に挙がることもなく、議論の対象になることはないのです。すなわち認知もされないモノはすなわち無なのです。存在しないのです。なので、神さまはそういった意味でこの世界にいることは間違いないです。認識されている時点で想像上のモノだとしても存在は確定しているのです。不思議ですね。まぁ、パスカルも「考える葦」で人は物理的には地球の一部分にしか過ぎないが、精神的にはこの宇宙をも包み込むことができるみたいなこと言ってたので、神さまを越えることも可能なんですよね。ま、結論としてよくわかりません。

以上です。さて、次回は「考える」を考える、についてひとりごとです。

 

 

追記

最近分かったこととして、結局僕の議論は

ハイデガーとかの存在論。

いわゆる存在としての存在と認識としての存在

という観点に還元されそうですね。

ま、どうでもいいことですけど。

 

おおいなるひとりごと PART1 教育と経済

 

こんにちは。最近ブログ更新しないのでどうしたもんかと

思っていました。なにかネタないかなぁ。。。と。

頭を捻っていたら

そういえば僕が大学で個人的にというか勝手に配布している

「おおいなるひとりごと」というのがあるのです。

これは本当にただのひとりごとで月に1〜2回ペースで出しているのです。

自分でいうのもなんですが

むちゃくちゃ面白い話もあります。くっそつまらない話もあります。

まぁ。僕のひとりごとなんで責任はとれませんので悪しからず。

ちなみにどんな回でもA4一枚なので3分で終わります。

さらにちなみに

現段階でpart10まであります。後半にいくほうが面白いです。前半(part3くらいまで)はクソです。

 

 

 

             僕の大いなるひとりごと。PART1

                        

 これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。特に興味のない人は読まずに食べてください。

 

・教育経済学的視点から

ふと、日本の経済と教育は非常にリンクしているなぁということを感じました。

 70年代における高度経済成長時、我が国は「もはや戦後ではない」の名の下に経済的発展を目指し、GDPなどの経済状況は著しく発展しました。しかし、その背景には新幹線教育・七五三教育とも揶揄される学力主義が教育現場に暗い影を落とすこととなりました(不登校児の増加)。また、現在、日本の経済は頭打ちとなり、GDPも中国に抜かれるなどの状況の変化が起きています。しかし、時を同じくとしてPISAの順位も下がり、日本の学力低下問題も叫ばれています(学力低下問題については多々論争がありますが、割愛)。

 そして、最もユニークなリンクだと僕が感じるのは、豊かさの問い直し、再出発と学力観の変化です。今までの経済至上主義の求める豊かさはいわゆる金銭的なものでした。そして教育においての豊かさは点数至上主義による学力でした。しかし、近年、経済は新たな豊かさを求める一歩を歩み始めたと言えるのではないでしょうか。金銭的な豊かさではなく、生活の豊かさ(ゆとりとも言えます、まさにゆとり教育とのリンク)や生活の質の向上(いわゆるクオリティオブライフですね)といった、金銭的なものではなく、精神的な豊かさを求め始めました。

この変化は教育にも顕著に表れています。かつての学力至上主義(経済とリンクさせるなら金銭至上主義)から教育観を捉え直し、新たな豊かさを求める変化が生まれています。代表的なのは総合的学習の時間や、生きる力ですね。また、文部科学省が豊かさという言葉を出しているのもユニークなリンクですね。

 つまり、カネカネ!(点数点数!)からお金だけじゃないよなぁ(点数だけじゃない学びがあるよなぁ)といったように変化が相互にリンクしています。これは単なる偶然ではなく、経済と教育は非常に念密に絡み合い、相互作用の関係にあると考えられるでしょう。しかし、歴史上、現実は経済によって教育が姿を変えるという一方的な関係に見えます。ですが、教育を変えれば経済も変わることもありえそうです。これはフレイレの論を参考にして考察したり、経済と教育のコミュニケーション論として捉えてみたりして考えたら面白そうですね。
 以上、特に根拠もない面白いなぁを書いてみました。雑文ですみません。

次回は神さまいるのか?論争についてのひとりごとです。

「アルバイト」のコト

こんにちは。

8月になりましたね。世間で必死で働いてる方もいるなかで

僕はアルバイトをしています。

 

大学で教員免許の更新講習をやっているので

それのバイトです。

 

 

まぁ、仕事内容は1時間受付して

1時間出席チェック等々の雑務して

のこり5時間は読書と課題などなどの時間になるという

なかなか美味しいバイトです。

 

でもね

 

でもね。

 

僕が大学生(学部生)のころ、

それはそれはそれなりにアルバイトをしてました。

朝から夜中までって時もありました。

 

その時は稼いでやるー!って思っていたのです。

 

でもね

ある人に言われたのさ。

バイトってのは、稼いでるんじゃない。

自分の売っているんだ

 

みたいなことを。

 

僕は結構ショッキングでした。

そうかぁ。稼いでると思うとプラスしかない気がするけど

売っていると考えると少しマイナスも入ってくるというか

自分を時給いくらで売っている・買われている

そういうこと。

 

 

そこから僕はバイトしまくるのをやめようと思ったし、

のんびり暮らしていこうと思ったんです。

 

今のバイトも本当に暇でいいんだけど

でもその代償に売っている時間は少なくない。

 

1日のバイト代と

1日の価値

見合っているのかなぁ。。。と思うことも。

 

でも仕方ないという面もある。

だってお金がないと授業料も払えないし、

生活費も払えない。

 

そういうギリギリの

葛藤。妥協。納得。諦め。

 

そんな日々に生きているのです。

 

僕は働きたくないなぁ。

いや、それは多分家事とか、畑仕事とか、

サッカーとか、そういうのだったらどんなきつくても

多分、やっちゃう。下手したら給料が最低限でもやっちゃいそう。

 

逆にどんな給料高くてもやりたくないことは極力したくない。

 

甘いこと言ったっていいじゃないですか。

だって、みんなそう思ってんじゃないか。

 

答えはきっと奥の方。

心のずーっと奥の方

ヒロトさんも歌ってます。

 

 

とかいろいろ言いながら

思うんだよね。

 

結局

帰り道

100万落ちてたら

むちゃくちゃテンション上がるよね。