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ことのこと。

思ったこと。感じたこと。自分の視点で自分の言葉で描いてみる。

「大学院と将来と時々ドS教授」のこと。

 

こんにちは。9月のキクチです。
以前お伝えしたように、
僕の進路はあれよあれよな状況なわけです。
 
ということで、意外と知らない大学院の仕組みと
僕の将来のことと
ドS教授のお話でも。。。
 
さて、キクチ、大学院どうするんだ。
という話ですが
ちょっと前まで辞める気でいました。
その理由は大きく二つ。
第1に
2年も海外行って
帰ってきて机にまた向かうのはさすがにしんどい。
教授からも一度研究から離れたら戻ってくるのは厳しいよと
言われましたゆえ、もう無理かなぁと思っていました。
つまり研究の特質上の問題。
 
なら、出発前に卒業(修了)しちゃえばええやないか。
という話にもなるのですが、
 
ここでもう一点
日程的に修了が不可能なのです。
 
 
 
〜ここからまぁまぁどうでもいい大学院のお話〜
 
 
そもそも大学院の修了要件はこれも大きくわけて2つあります。
1・修了単位を全てとること
 
ちなみに2年間で32単位。この内の8単位は修士論文
つまり実質24単位、すなわち12コマ。年間で6コマ。半年で3コマ。よって授業は週三回ペースでいいのだ!なんて楽!
 
余談と自慢ですが、僕は大学時代、180単位くらいとって卒業しました。
だから大学院の6回卒業できるくらい!すごい!キクチ!
 
 
さて、もう一つの修了要件はもちろん
2・修士論文を提出すること
(1で書いたように修士論文は8単位だけれども、ほかの授業で8単位を代替し修了することはもちろんできない。)
 
さて、この修士論文はやはり曲者で、まぁ、そう簡単じゃありません。
これが書けず留年・退学する人も幾人かおります。
 
内容はもちろんそれなりに求められますが
 
まずはどれだけ書けばいいの?
 
そりゃ奥さん、気になるところでしょう。
 
もちろん場所や分野で差がありますが、
僕の所属する研究室ではワードで大体60枚くらいと言われております。
 
そうですね。ちょっとした小説です。村上春樹の「風の歌を聴け」とか。吉本ばななの「キッチン」とかくらいの分量です(たぶん)。
 
もっとわかりやすく言えば「深夜特急」で主人公がインドくらいに着いちゃうんじゃないかな。
 
 
余談と自慢ですが
僕は大学時代、研究室史上最も短い卒業論文を提出したと皆に
褒め称えられてると思ってたら、嘲笑されてました。
しかもそれを、卒業後、後輩と会った時に
「・・・キクチさんの卒論、今まで史上一番薄いって先生言ってましたよ・・・」
と言われ
「・・え・そうなん・・・?」
とわりとへこんだもんです。
 
大体本文が30ページはいってないくらいでした。
そうですね。
 
深夜特急で例えるなら主人公まだ日本にいますね。
すごい!キクチ!
 
あ、話を元に戻します。
 
さて、どうにかこうにか修論を書き終わったとしましょう。
 
学部だったらそれで卒業ですが、
大学院はそうではないのです。
 
そうです。
魔の口頭試問という試験が待っているのです。
 
まぁ、分かりやすく言うと
修論に関する圧迫面接ですね。
これ、ちがくね?何書いてんの?意味が通じない。
という必死に書いたものをボコボコに言われる(らしい)
拷問に近い試験が待っており、
 
修正点が出されたらそれを修正し
再提出するという作業が待っています。
 
余談ですが、とあるドS教授は
他研究室の院生の口頭試問で、
これ、問題意識からやり直したほうがいいんじゃないの?
という大逆転劇を出したそうな・・・。
深夜特急で言うと、そもそも、海外行かなくていいんじゃね?くらい身も蓋もない
一言です。
 
 
こういう過程を経て修了することができるのです
 
さて、ようやく、日程的に修了が不可能、という話につながります。
 
 
実は、
その口頭試問は例年、1月にあります。
修論の締め切りは12月末。そして、1月に口頭試問、
それから修正して、2月に再提出というスケジュールで動きます。
 
僕は海外こそ、4月くらいに出発ですが、
あの世界最強の語学学校と呼ばれる
語学研修合宿に1月から2ヶ月くらい行くことになります。
そうです。口頭試問受けれないのです。
ということで修了ができない→授業料もったい無い→休学or退学
→休学しても戻ってきて研究を再開するのは厳しい=退学
という構図が描かれるわけです。
 
ということで、僕はまぁ、退学を視野に入れてたのですが
 
ところがどっこいこむすびさん。
特例が組まれることになりました。
わーい。わーい。
 
どのような特例かというと、口頭試問を12月の末に
修論〆切りを12の初めにするというものでした。
 
きたー!こりゃ卒業できるぞ!ということで
突如休学願い等を取り下げ在学することに。
 
ところがどっこいハムチーズ。
とあるドS教授はそんな甘くありません。
 
ーいいかい。きくちくん。通常の人は12月末に修論をだしますよね。
ーはい。
ー君は12月の初めに出さなくてはならないね。
ーはい
ーてことはだ、〆切りが2週間くらい早まることになるね。
ーはい。
ー2週間早まるということはかなり大変ですよ?
ーはい。頑張ります。
ー・・・と思ってたら甘いですよ。
ーは?
ー2週間どころじゃないですよ。
ーえ?
ー普通の人は最終的に2月に提出するんです。君は12月。つまり早まっているのは2週間じゃなく、2ヶ月です。
ーた、確かに・・・
ーつまり・・・君の〆切りは・・・
ーはい・・・(ゴクリ)
 
ー10月です!
 
ーひょっ、ひょえーーー!!
 
というやり取りがありまして。
 
ぼく、修論あと1ヶ月で書かなくちゃ卒業させないという
条件が出されました。
 
 
前途多難
というより無理です。
 
普通少しずつ書いては消し、書いては消し、修正して
作っていくのに。
 
レベル1から魔王に挑ませないでください。
せめてエクスペクト・パトローナム(守護霊よ来たれ)の呪文を覚えてから
例のあの人と戦わせてください。
 
 
ま、どちらにせよ。
できる限り修論の完成のために
努力して、帰って来た時に手直しくらいな状況にできれば
いいんですけどね。
 
 
そんな感じです。
 
 
 

「あ、、、僕がしたかったのはこういうこと」のコト

 

つい先日、大阪にある

素敵なフリースクールに行ったのです。

 

自分の研究に関連するのも一つの理由だけど、

改めてフリースクールというのを見てみたかったのです。

 

んでね、まぁ、いろいろなコトがありました。

いろいろな子どもに会えました。

いろいろなお話を聞けました。

 

今回はその中の一つのおはなし。

 

 

僕が学校(フリースクール)見学させてもらう時に

1家族も一緒だったのです。

子ども(中1)とその両親。

 

まぁ、特に何かを話すコトもなく

この子もしかしたらフリースクールに入るのかなぁ。。。

くらいに思ってました。

 

でも最後に、フリースクールのスタッフの方が

「キクチさん、そういえばフリースクール出身でしたよね

なにかあれば・・・」

と話を振られたのです。

そしたらもう家族がすごい食いついてきて

え、そうなんですか!?って。

 

「いやぁ、実はそうなんです・・・」って。

 

ということで

ちょっとだけ僕の人生を話させてもらって

んで、

結局伝えたのは

 

不登校だってだけで

そんなに否定的にならないでほしい。

 

少なくとも僕にとってあの時の経験は、

大切なものになっている。

そして確実に今の僕の糧になってる、プラスに働いています。

 

だから、どうか自分を責めないでほしい

だから、どうか息子さんを責めないでほしい

ネガティブにならないでほしい。

人生は今決まるんじゃなくて、

この先の長い人生で決めながら生きて行くんだと思います。

だから、きっと大丈夫ですよ。

少なくとも僕よりは立派な人間になれますよ。

大丈夫です。

 

ってお話をしたら

まぁ、お母さん泣いてしまって。

 

お父さんも子どもさんもすごい話を聞いてくれて。

 

ありがとうございますって。

安心しましたって。

ずっと不安だったんですって。

希望になりましたって。

 

そう言ってもらって

僕はあぁ、そうだよなぁ。僕がやりたかったのは

修論を書くコトとか、大学院を卒業することとかは

あくまで過程であって目的じゃないよなぁ。。。

 

最後にはこうやって悩んでいる人、不安に思っている人に

大丈夫ですよ。って言ってあげることだったんだなあ。。。って

 

改めて初心に返った気になりました。

 

そのあと少しだけ家族の話を聞いて

もう一度ゆっくりお話させてくださいって言われてこちらもぜひ!って

連絡先交換してその日は別れたんだけど。

 

 

なんだか、あぁ、自分の経験とか、考えとか

そういうのが自分だけで完結するんじゃなくて

誰かのためになって、それで泣くほど喜ばれて

そして繋がっていく。

 

この感覚はなんだろう。

とても嬉しい。

 

ちょっとだけ、自分が自分でよかったと

思えるそんな出来事でした。

 

 

 

ちなみに、フリースクールにいる

女の子が

将来先生になりたいって言っていて

どうして?って聞いたら

だって、学校の先生って偉そうで子どもを子ども扱いして

いつも正しいって顔しているのが気に食わない。

私が先生になって変えてやるって言っていて

 

 

なんてこった。

こんなかっこいいやついるんか。

参りました。

 

 

大人も子どもも関係ない。

そこにいるのは

ただの人間と人間なんだよな。

 

「15年前のぼくと、まだ見ぬ誰かに伝えたいこと」のコト

 

ようやく、紀要論文が完成しました。

ちなみに兵庫教育大学紀要第49号に載る可能性が高いらしい。
タイトルは「LINEスタンプを用いたコミュニケーション特質」です。教育関係ないじゃんって言われればそれまでですが、まぁ、そんなことは別にいいじゃない。
一応共著です。
調査はみんなでやりましたが、
草稿、原稿、修正を担いました。
あ、別に「凄いでしょう。頑張ったでしょう!苦労もしたんだよー!」ってことをアピールしたいのではなくて目的は20行くらい下に書いてます。
 
でもちょっとくらいその苦労や頑張りを自慢させてください。
ぼくだって欲張りな人間です。
 
執筆活動は本当に大変で、妥協してたり、くじけそうなとき、NHKの番組「プロフェッショナル」(ある作曲家の回だったんですが)で、「ぼくには才能なんかない。世の中の人みたいにインスピレーションで曲を書けたり、ある日にあ!って浮かんでくることなんてない。答えは目の前にあって、どれだけそれに向き合えるかだ。いつもぎりぎりのところで苦しんで戦っている。僕は作曲家じゃなくて努力家だ」(だいぶ菊地訳が入ってますがだいたいこんなこと言っていた)
という言葉に心をビンタされ
 
その日から来る日も来る日も書いては直し、書いては直し。
向き合って苦しんでようやく。
本当にようやくここまできた。
 
執筆を始めたのが2月くらい。
でも研究としては10月から始まって、どうにか締切の前日に書き上げることができました。書き直した回数なんて覚えちゃいない。
ジョジョで例えるなら「貴様は今まで食べたパンの枚数を覚えているか」(主人公のジョジョの「今まで何人の人を殺してきたんだ」という質問に対してのDIOの回答)
 
という感覚です。わかります。DIOさんその気持ち。
まぁ、それはいいとして、
 
論文としてのクオリティは正直言ってそこまで
高くないと感じています。
だけど、自分の人生の中でこんなにひとつのことに
向き合って戦って苦しんだ日々は初めてで
完成した時のあの充実感ったらもう。ニヤニヤしちゃうやん。
 
でもそんなことはどうでもよくて(ようやく本題)
 
僕がこの執筆の話を受けたのはもっと別の理由があって
それは僕の過去にもつながるものであって。
 
前も書きましたが、
僕が大学院にいることは自分の人生の中でひとつの
意味をもつのです。それは学校に行かず、引きこもったり、フリースクールに行ったりして
中高も自森という環境で過ごした自分。
少なからず学歴とか、学力とかそういうものは僕の大きなコンプレックスでもあります。でも、そんなぼくが
最高学府である大学院修士(もちろんこの上には博士もあるのだけど)まできて、そしてひとつの小さいけど紀要論文を書くという確かな実績を残せたこと。
 
ようやく言えます。
 
家に引きこもっていて強がりながらも内心自分はダメなやつだと思っていた15年前の僕。大丈夫だったぞって。
以外とやれたぞって。だから安心しろってタイムマシーンがあれば
伝えに行きたい。
 
そんで、世の中の僕みたいな誰かにも伝えたい。
こんあアホな僕だけど、やれることがあって、社会に自分を刻むことができる。だから余裕でできるぞ。だから大丈夫だって。
落ち込まなくたっていい。
 
今まで口ではこんなこと言ってきたけど、
ようやく形あるものとして、背中で言えるようになったなぁ。
 
小さなことだけどおおきなこと。
 
ようやく自分のコンプレックスとか、自分の過去にニッコリと笑えそうです。もっと自分を愛せそうです。
 
分数のできない大学生を卒業し
分数のできない大学院生としての自分
でも、そんな自分も悪くない。
 
そんなぼく、就活始めました。
とってもおもしろそうなとこに。
 
そんなぼく、少し挑戦しています。
大学の時に夢見てあきらめたことに。
 
就活のこととか、挑戦のことは
また、いつかの機会に。
 
 

僕の大いなるひとりごと part4 虚構のリアリズム編

             大いなるひとりごと part4

            —虚構のリアリズムについて−

これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。興味のない人は裏紙にして地球と仲良くしよう。

 

 この前、面白い話を聞きました。とある4才くらいの女の子がトイレには小人がいると言うのです。そして、小人はいい匂いで花柄のトイレットペーパーがあるトイレにしかやってこないと言うのです。この女の子は小人をまるでどこかで見たかのようにリアルに語ります。

 さて、人がリアルだと感じるのはなぜでしょうか。昔読んだ虚構のリアリズムという本を思い出しながらちょっとつぶやきたいと思います。例えば、ジュラシックパークや戦争映画などを僕らが見た時、僕らはリアルと感じるでしょう。実際に恐竜を見たこともなければ戦争に行ったこともないにもかかわらずです。不思議ですよね。きっとそこには作り上げた(作り上げられた)いわゆる虚構=イメージが存在し、そこに現実世界を寄せているという逆転的な思考があるのではないでしょうか。 

 

日本人がルーブル博物館などに行ってそこにある絵をみる時に、その絵を楽しむのではなく、あ、本当にこの絵があった!と実際に確かめることの方が大きな喜びを生むのだとどっかで聞きました。似ていますね。僕らの頭の中には「これはこういうもの」というイメージ=虚構のリアルが存在しているのではないでしょうか。もし、実際にサンタに出会った時、スーツを着ていたらおそらくギャップを感じるでしょう。それどころかこれはサンタではないと否定すらする可能性もあります。

 

本の著者は受け手が受け取るイメージは、手の平で砂をすくい取ることだと比喩しています。すくい取る際に、大事な要素はこぼれ落ち、残った洗練されたイメージ(エッセンス)のみをそのものとして、リアルとして認識してしまう。しかし、こぼれ落ちた砂の中にこそ、兵士の血の匂いや、恐竜の吐息があるのです。つまり、信じるというのは本当にその実物を信じているのか、残された強烈なエッセンスを信じているかを吟味する必要がありそうです。肝はそう簡単に信じるなってことですかね。

 

しかし、虚構だのイメージだのとこんなこと言いながらも、結局、僕は女の子が小人を信じていることを子どもらしいと愛おしく思います。矛盾です。でももしかしたら、子どもがそんなふうに空想を信じるものだ、ということさえも作られた虚構のリアリズムかもしれません。何かを研究する際にも時折、自分の手の平を見て、こぼれ落ちている砂はないか見てみるのも大事ですねと、なんとなくそれっぽいことにこじつけておわります。

 次回は「価値観」についてか、「わかりやすいとわかりにくい」についてです。

ぼくの大いなるひとりごと。PART 3

 

               ~「考える」を考える 編~

         

 これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。特に興味のない人は紙飛行機にして憂鬱と共に投げ捨ててください。

 

 昔、テレビかなんかで「会議室で話されていることの7割くらいは無駄だ」という言葉を聞いたことがあります。だとしたら会議室の本末転倒感は凄まじいことになりそうです。   

 また、日本語には「机上の空論」という諺があります。どうして机上なんでしょうね。基本的に人は机に向かって学習をし、思考するという文化があるのにかかわらず、です。  

広辞苑によると「机上で考えただけで、実際には役に立たない案や意見」とあります。なんだか会議室のくだりと関連する部分がありそうです。

さて、人類にとって、「考える」という営みは人類たる証拠であるとも言えます。「我考える故に我あり」や「考える葦」など数々の歴史が考えるという営みを評価しています。

 僕が「思考の整理学」という本を読んだ時に知ったのですが、中国では古くから人がモノを考えるのは馬上・枕上・厠上(いわゆる三上)が良いと言われていたみたいです。つまり移動中、寝る前もしくは起き抜け時、そして用を足している時。なんだか分かる気がしますよね。

しかし、この三上に机がないというのも非常に興味深いことです。古今東西、机の上での思考は役立たずである、ということなのでしょうか。

では、ここで疑問ですがなぜ、三上があの三つなのでしょうか。机上との差は何なんでしょうか。共通項を見つけると見えてくるかもしれません。ちょっと考えてみましょう。

 一例として、机や会議室は思考することが目的として成り立ってますよね。さらにそのために雑音がないように壁を厚くしたり、喧騒から離れた場所に設置したりというおぜん立てをいろいろしているわけです。逆に言うと三上は移動すること、寝ること、用を足すことがメインであって思考をメインにしてません。このことから考えるは、考えるという行為を脇に置いている時に絶大な効果を生むのではないでしょうか。ぼーっとしている時にひらめくというのはよくある話ですよね。また、アメリカではビジネスマン同士の仕事の話はカフェでやることが多いと聞きます。それは雰囲気や、満腹時のリラックス効果によって良い交渉ができるからだと言います。そこからも思考は強制されるとうまく機能しないのかもしれません。よくクイズ番組で簡単な問題なのに制限時間というプレッシャーに負けて答えられないシーンがあります。あれも同じことでしょう。机の上も会議室も考えなくてはならないという強迫観念が内在しているのではないでしょうか。北欧の教室も、もしかしたら関連があるかもしれません。思考は強制されるものではないのですね。

以上、考えることを考えてみました。今回はいつにもまして脈絡のないひとりごとでした。すいません。次回は虚構のリアリズムについてです。

大いなるひとりごとPART2 神さま編

            ぼくの大いなるひとりごと。PART 2

               ~神さまはいるのか~

              

 これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。特に興味のない人は読まずに燃やしてファームの肥料にして下さい。

 

 さて、今回は神さまという特に結論もない話なのでひとりごとにはうってつけですね。ぼくは神さまを信じていません。しかし、僕の知り合いにキリスト教の方がいます。それで日常的に神さま論争が勃発し、ケンカになります。神の話題でケンカが起きる。まさに世の中の縮図ですね。

まぁ、それはさておき、本当に神さまはいるんでしょうか。

 デカルトがこんな質問をあなたに投げかけます「あなたは完全か?」それに対し、あなたはどう答えるでしょうか。

おそらく「不完全だ」と恥ずかしげもなく答えるでしょう。するとデカルトはこう言います、「不完全ということは、相対的に完全なモノが存在するということだ。よって神はいる」と。なるほど。

ぼくはデカルトを読んで以来、神さまいるじゃん!と思いました。

ですが、「神は死んだ」でおなじみのニーチェはだいたいこんな感じのことを言います「悪からもっとも離れた私たちは善である。という思考(いわゆるルサンチマン)は人間の弱さが生み出す虚構である」と。

かつてキリスト教信者は社会的弱者でした。そこでその人たちは今、貧しくつらいから天国に行ける。権力持ち、金持ちは悪だから私たちは善だ。という反転した思考を用いて自己を保っていたみたいです。

さて、ここでデカルトに戻りますが、先ほどの不完全があるゆえに完全があるといった理論もこれに当てはまるのではないでしょうか。だとすると不完全を認識したからといって完全が存在するとは限らないと考えることもできそうです。

ニーチェを読んで以来、僕は神さまやっぱりいねぇじゃん!と思うようになりました。

 

しかし、最近思うのです。神さまの存在を信じることと、神さまを信じることは違うのではないかと。存在として、確かにいるかもしれません。だとしても、それによって自分の行動が何かしらの変化が起きるわけではない。

つまり、存在としてBelieve (信じる)と自分を預けるTrust(信用する)には差異があるのではないかと考えました。

あと、このように話題に挙がるということはすなわち概念としての神の存在は疑いようのないことだと言えます。つまり、「ポロリンクス」(今僕が適当に作った言葉)は議題に挙がることもなく、議論の対象になることはないのです。すなわち認知もされないモノはすなわち無なのです。存在しないのです。なので、神さまはそういった意味でこの世界にいることは間違いないです。認識されている時点で想像上のモノだとしても存在は確定しているのです。不思議ですね。まぁ、パスカルも「考える葦」で人は物理的には地球の一部分にしか過ぎないが、精神的にはこの宇宙をも包み込むことができるみたいなこと言ってたので、神さまを越えることも可能なんですよね。ま、結論としてよくわかりません。

以上です。さて、次回は「考える」を考える、についてひとりごとです。

 

 

追記

最近分かったこととして、結局僕の議論は

ハイデガーとかの存在論。

いわゆる存在としての存在と認識としての存在

という観点に還元されそうですね。

ま、どうでもいいことですけど。

 

おおいなるひとりごと PART1 教育と経済

 

こんにちは。最近ブログ更新しないのでどうしたもんかと

思っていました。なにかネタないかなぁ。。。と。

頭を捻っていたら

そういえば僕が大学で個人的にというか勝手に配布している

「おおいなるひとりごと」というのがあるのです。

これは本当にただのひとりごとで月に1〜2回ペースで出しているのです。

自分でいうのもなんですが

むちゃくちゃ面白い話もあります。くっそつまらない話もあります。

まぁ。僕のひとりごとなんで責任はとれませんので悪しからず。

ちなみにどんな回でもA4一枚なので3分で終わります。

さらにちなみに

現段階でpart10まであります。後半にいくほうが面白いです。前半(part3くらいまで)はクソです。

 

 

 

             僕の大いなるひとりごと。PART1

                        

 これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。特に興味のない人は読まずに食べてください。

 

・教育経済学的視点から

ふと、日本の経済と教育は非常にリンクしているなぁということを感じました。

 70年代における高度経済成長時、我が国は「もはや戦後ではない」の名の下に経済的発展を目指し、GDPなどの経済状況は著しく発展しました。しかし、その背景には新幹線教育・七五三教育とも揶揄される学力主義が教育現場に暗い影を落とすこととなりました(不登校児の増加)。また、現在、日本の経済は頭打ちとなり、GDPも中国に抜かれるなどの状況の変化が起きています。しかし、時を同じくとしてPISAの順位も下がり、日本の学力低下問題も叫ばれています(学力低下問題については多々論争がありますが、割愛)。

 そして、最もユニークなリンクだと僕が感じるのは、豊かさの問い直し、再出発と学力観の変化です。今までの経済至上主義の求める豊かさはいわゆる金銭的なものでした。そして教育においての豊かさは点数至上主義による学力でした。しかし、近年、経済は新たな豊かさを求める一歩を歩み始めたと言えるのではないでしょうか。金銭的な豊かさではなく、生活の豊かさ(ゆとりとも言えます、まさにゆとり教育とのリンク)や生活の質の向上(いわゆるクオリティオブライフですね)といった、金銭的なものではなく、精神的な豊かさを求め始めました。

この変化は教育にも顕著に表れています。かつての学力至上主義(経済とリンクさせるなら金銭至上主義)から教育観を捉え直し、新たな豊かさを求める変化が生まれています。代表的なのは総合的学習の時間や、生きる力ですね。また、文部科学省が豊かさという言葉を出しているのもユニークなリンクですね。

 つまり、カネカネ!(点数点数!)からお金だけじゃないよなぁ(点数だけじゃない学びがあるよなぁ)といったように変化が相互にリンクしています。これは単なる偶然ではなく、経済と教育は非常に念密に絡み合い、相互作用の関係にあると考えられるでしょう。しかし、歴史上、現実は経済によって教育が姿を変えるという一方的な関係に見えます。ですが、教育を変えれば経済も変わることもありえそうです。これはフレイレの論を参考にして考察したり、経済と教育のコミュニケーション論として捉えてみたりして考えたら面白そうですね。
 以上、特に根拠もない面白いなぁを書いてみました。雑文ですみません。

次回は神さまいるのか?論争についてのひとりごとです。