中南米のひまじん。

不登校→大学院→青年海外協力隊→パナマ=ひまじん。スペイン語勉強中。そんな暇でしょうがないひまじんが、意識高いフリしてなんかする。

「造り出す」ということ

いつの間にか私たちの生活は

造りだすという生活から消費するという生活にかわってしまっている。

 

かつては毎日の仕事が例えば農業のようにその日一日を生きるために

費やしてた時が、お金を稼ぐための仕事になって

お金を使ってものを手に入れるという仕組みになっている。

 

 

きっと戦前、戦後直後から、

先進国に変わりゆくその時にシフトしていった日々の生活。

 

 

僕はもったいない

と思うときがあります。

 

もちろんそれは

もうどうしようもないことで、この時代に生まれたからこの時代の流れに沿って生きるということはもう受け入れるしかないし、楽しむしかない。

 

 

でもやはり造り出すという行為はなんて素敵で尊いものなのだろうかと思う。

 

 

造り出すというのは毎日の生活で欠かせない行為

例えばご飯を作るとかも

食材を使ってご飯を造り出すということの繰り返しである。

 

 

造り出すということは以前よりもずっと少なくなってしまっているけれども

人が生きる上で必ず必要で生活を支えていてくれている。

 

でも、

安さを求めて、利益、効率を追求するこの社会では

それも億劫で買ってきたものをチンして食べるという

表面上の生活が主流になっている。

 

でも、些細な造り出しの連続、すなわちそれが普段生きるということの繰り返し。

 

人が毎日なにげなく生きる

これってもっと本当にそして本質的にすばらしく、大変で、そんでもって

とても美しい日々の営みであると僕は信じています。

 

また、確かに時間はかかるけれども、

安さを求めるならば、自分で造り上げた方がずっと安い。

そして、何でできているのかとか、自分の好みとかそういうのも表れてくる。

 

生活ってのは自分にフィットしていくのだと思う。

 

なんでもかんでも一回手作りしたい。

 

 

出来合いのものを手に入れたとき、

僕の目に映るのは、そのモノだけでしかない

でも本当はそれだけじゃない。

 

どっかの誰かが、育てて、作って、それを加工して、誰かが運んでくれて

多くの人々が関わりあってようやく僕の目の間に表れる。

 

もう、感動です。こんにちは。です

 

そういう感動をたまには感じてみるのもいいことだと僕は思います。

 

僕は今

授業で、バックを作ろうかという所存です。

 

かかるお金は1000円くらい。

それでもちゃんとしたものを作れる。

(僕に人並みの知能と、技術があれば)

 

教授は1000円あればスーツを作れるという。

 

 

いやぁすごいわ。

 

かっこいいよね。

 

 

家庭科ってのは

 

人生において一番学ばないといけない科目だと僕は確信してる。

 

社会において求められるのは算数(数学)国語とか英語、まぁよくいわれる

受験科目

でも人が人として生きるという面においては話は別じゃなかろうか。

 

自分が今着ている服、食べている食材、住んでいる家、

家族のこと、環境のこと、そして今、自分が存在して他者とかかわり合って生きていること

そういうことを知る、学ぶってマジでアツいことだと。

 

 

国語、算数はできなくても生きていける

でも

毎日の生活の仕方がわからないと生きていけない。

証拠は僕自身。

分数はわからないけどでも、ご飯は作れる

漢字はかけないけど、衣服などを作れる(ようになりたい)

英語はできないけど、他者とつながれる。

そして、自分を知れる。

 

日々の普通の生活を通して、自分を学べる。生きるを学べる

 

そういう思考のきっかけを子供たちに伝えられるのはやはり家庭科なんでしょう。

 

 

ないなら買う

ないなら造る

 

僕はできる限り造りたい。

 

「造り出す」

ってのは

僕が造ったものをあなたに差し出しますよと。

 

造って、あなたの目の前に出す

 

 

そういう感覚がわかれば、目の前にあるモノが

単なるお金を消費して買ってきたモノではなくなる

 

そう信じております。

 

 

 

最近、家の台所にはジャガイモしかない。って状況があった。

 

ということで

ご飯どーするー?と

ルームシェアの相方に聞いてみた

 

僕は、ジャガイモあるなら

ゆでて、ポテトサラダでもつくってみるかと思ってたら

 

相方は

 

「ジャガイモあるなら、ゆでてさぁー」

 

お、やっぱりそういう発想になるよなぁ。そうするかーと思ってたら

 

「バター塗ってジャガバターにしようよ」

 

 

その発想。出る?ふつう。

晩ご飯、じゃがバターって祭りじゃないぞ。

 

 

発想が輝いているのか、乏しいのか僕には判断できかねますが

 

ま、それはいいとして、

 

僕がいいたいのは

 

造る、造れるという考えがない人は

絶対的に造るという発想までたどり着くことができない。

 

 

数字を習ったばっかりの子が、

少数を考えつけないように

 

面積が2の正方形の一辺の長さを考えれないように。

 

でも、ルートってやつを一回知れば、経験すれば、

新しい世界がそこにあらわれる。

 

あぁ

日々をただ単調に生きるということが

何かを造り出して自分が生きているのだ

というように思えれば、ふつうの生活ってなんてすげーんだと

しることでしょう。

 

 

もっと、日々を愛していこう。

スローライフ

ディープライフ

を感じたい。