中南米のひまじん。

不登校→大学院→青年海外協力隊→パナマ=ひまじん。スペイン語勉強中。そんな暇でしょうがないひまじんが、意識高いフリしてなんかする。

「無意味なことと戯言と時々愚痴」のこと

 

諸君!

 

いや、誰もいないのだけれども

あえてここでは諸君と呼びかけることにする。

 

さて、私が日本の裏側に来てすでに1カ月の歳月が流れたと思っているが

実際にはそうではない。2週間くらいである。

 

したがって少しずつ生活に慣れてきたと言ったら過言である。

 

そこで私は恥ずかしげもなく正直に言おう。

 

私は今、生活に飽きている!

 

他のボランティア達の生活が非常に

輝かしく、また希望に満ち溢れているのを見て

 

あれ、なんかそういうもんなの?という

途方もない寂しさに襲われている。

 

いや、実際そんなことないよね?

え。そんな楽しい?

ちょっとまって。おいてかないで。。。

 

そんな不安と葛藤をサクッと背負い込んだ

私は今から諸君らに純粋に愚痴をぶちまけることにする。

 

史上稀に見る駄作であることから

本当に暇じゃなければ直ぐさまパソコンの電源を切るか

ホームボタン連打をお勧めする。

後悔はしてからでは遅い。

 

さて

上述したことと相反するかもしれぬが

私のパナマ生活はつまるところ、

やる気に満ち溢れている!

 

獅子は我が子を谷に突き落とすというが

私はまさに自分を突き落としているのである。

 

例えば、日本であれほど勉強し書き溜めた便利なノートや

勉強道具を全て日本に忘れてくるほどのやる気に満ち溢れているのである。

 

そもそも筆箱や筆記用具さえ持ってくることを忘れてくるほどの努力をしている。

そしてそれに気づいたのも語学学校が始まる当日の朝であった。

 

したがって今は眼鏡ケースに、リュックに偶然入ってたボールペン一本をいれ

あたかも筆箱のように見せかけるというストイックさである。

 

(ちなみに何故か眼鏡とケースは全部で4つ持ってきていた。

なぜこんなに持ってきはのかは吾輩にもわからぬが、無論一つしか使っていない)

 

さらに

私の努力はそれだけにとどまらない。

 

例えば、家族との会話をあえて拒絶し、すぐさま部屋に引きこもり

日本から持ってきた甘酸っぱい青春を題材にする小説を読み漁り

ホームシックにかかるように仕向けているのである。

 このストイックさと言えば

かのイチローに匹敵する可能性がちょっとある。

 

決して人見知りが全力で発動し、

言葉の壁が思いの外高く登る気力を失ったというわけではない!

 

さて

このように書くと諸君の中に勘違いするものが出てくるだろう。

 

すなわち、菊地はただダメなやつなのではないか、と。

 

私はそのような声に断固反対する。

 

日本には昔から「能ある鷹は爪をかくす」という言葉がある

まさにそれなのである。

 

したがって私は家族との会話に参加することなく、黙々とご飯を食べ

余計なことを話さず爪を隠しているだけである。

 

そしてその隠し場所を忘れてしまっただけである。

下手したらこれも日本においてきた可能性もある。

 

しかし、私は隙あらば会話を乗っ取ってやろうとその隙を

虎視眈々と狙っているのである。

ただ、しかし虎視眈々と待っているあまり

少しうたた寝してしまい、

ホームステイが残すところあと一週間になってしまっただけである。

 

このほかに

私のストイックさを語る事例を挙げるとしたら枚挙にいとまがない。

例えば

夜、家に帰ってご飯を食べ(1人で)お風呂はいって寝るまでに

「ごちそうさま」と「おやすみなさい」

しか言わなかったという

おそらくボランティア史上最短のコミュニケーションで乗り切った夜が

3回くらいある。

 

もはや家族となったわれわれに

多くの言葉は必要がないと自負している。

 

このようなわれわれの関係性に気づけず

軽率に私を心配してくる輩もいる。

 

「きくちさん。もう少しコミュニケーション取ったほうがいいですよ。

スペイン語の勉強にならないですよ」

 

とある人に言われたこの冷静なるツッコミに

私はやや動揺したことを認めざるをえない。

 

だかしかし、

スペイン語とはあくまで言葉であり言葉とはコミュニケーションをとるための道具である

したがってコミュニケーションをとる必要性が感じられない時に、

スペイン語を話す理由など

流しそうめんでしらたきを流すくらい本末転倒かつ、

この例え並みによく分からないのである。

 

このように全てのものに反対し、屁理屈をこねている私を

人は「低俗だ」と罵るであろう。

 

しかし

かつてフリースクール創始者であるニイルは

学生時代に以下の(ような感じの)言葉を残している。

 

「くだらぬ慣習や風習に反抗することを低俗だというのであれば

私は高らかに、陽気に宣言しよう。私は徹底的に低俗である」

 

よく言ってくれたニイル。

まさしくである。

 

加えて

かのデカルトの名言といえば

「我思う(疑う)ゆえに我あり」

であるが

 

全てに正直になれないことが

自分の存在意義なのである。

 

このようにして、私は

自分の不甲斐なさと愛しさと切なさとと心強さを

 

無理やり過去の偉人になぞらえて

価値のあるものだと昇華しているのである

 

いや、結局言い訳っしょ

という声に私は耳を貸さない。

なぜならばその通りだからである!

図星をつかれるのはなかなか心苦しいものである。

 

苦しむならいらない!

どっかの少女漫画のヒロインみたいなことを

24歳の眼鏡の引きこもり青年が嘆いている絵面はなかなかにきびしい。

 

あ、価値といえば

私が日本から玉ねぎ持ってきて

現地のスーパーに行ったとしたら

 

目の前にある玉ねぎと

僕が持ってきた玉ねぎ

 

味も見た目も一緒なのに

価値(値段)と名前が違うことに

今更ながら感慨深さを感じている。

 

 

ロミオとジュリエット」(シェイクスピア

の中で

ジュリエットは以下のように言う

 

「名前って何?バラと呼んでいる花を別の名前にしてみても

美しい香りはそのまま」

 

玉ねぎだって一緒である。

 

玉ねぎを別の名前にしてみても

切ったら涙はでてくるのよ。

 

 

 

諸君、うすうす感じているだろう。

 

紛れもなく今回の投稿もまた

なんの意味と意義を持たないことに

ただの戯言である。

 

 

ということで

これ以上いつか読み返した時に恥ずかしくなるのは御免なので

ここで幕を引こう。

 

しかし、無意味なものなどこの世に存在しない。

 

だからきっとこのパナマ生活も

いつか意味がわかる時がくるのであろう。

 

 

だから、、、あの、、、、がんばろうね。