中南米のひまじん。

不登校→大学院→青年海外協力隊→パナマ=ひまじん。スペイン語勉強中。そんな暇でしょうがないひまじんが、意識高いフリしてなんかする。

「大学生活」ということ

実習が始まってきた。ということで一年続けていたバイトを辞めた。

 

自分にはこんなにもやるべきことやりたいことがあったのかと気づかされた。

 

バイトをするということは悪いことではない。いろんな経験やお金を得れる。もちろん経済的にしなくてはならなという事情もある。

 

しかしバイトは自分の時間を売っている。稼いでいるのではなく「売っている」ということを考えてみてほしい。

このニュアンスの違いが分かるだろうか。

 

 

学生の主は勉学であるということは言うまでもない。

しかしながら大学をモラトリアム(わかりやすく言うなら執行猶予)と捉え、最後のバカンスとばかりに存分に楽しむ人もいる。

 

フロムや、内田樹のいう

「自由からの逃走」というワードにピンとくる人は多いのではないか

 

小中高という束縛時代から解放された大学生の中にはその自由さ、奔放さに戸惑ってしまっているという話

 

小中高の教育とは決められたレールをどれだけ丁寧になぞれるか、辿れるかを求められることが多い。しかし大学の教育ではどのような道を描くかがカギとなっている。

 

しかし、それがどれだけ難しいことか。なぞることを求められてきたものに

いきなり描くことを求めることへの難題さがそこにはある。

そしてそういう教育を受けてきている青年に対して自己責任の名のもとに将来の道をほぼノーヒントで描かせる。

 

今日の大学全入時代という社会背景において望めばほぼ自動的に入れる大学という枠組みで青年たちは未来を創造し道を歩むことができるのだろうか。

そう思う人も多いかもしれない。

しかし、かつての大学像と今日の大学像を混合してはいけない。

時代は流れ、モノの価値観はうつりゆくものである。

今、多くの大学はかつての寺子屋や、最初の大学を生んだ動機を失っていることが少なくない。

それはそれでいい。

しかし重要なのはそういう時にどう過ごすかである。

もちろん、「こうあるべきだ」ということなど、多様化が進む今の時代にはミスマッチもいいとこである。

言うまでもなく個人の自由である。

 

しかし、その個人の自由はいったい何の土台に成り立つ自由なのか

何に向かっていく自由なのかは

自由を謳歌するものとして知る必要があるべきことなのである。

 

僕は個人的に

毎日の日々を人生最後の日だと思って生きているのか!?

とかいう類の言葉は嫌いである。

 

人生最後の日の過ごし方は人それぞれだし、

人生最後の日に人に説教して終わるような人間にはなりたくもないし、

人生最後の日を人から説教されテンション下げられて終わりたくもない。

 

 

大学の日々は天から舞い降りてきた贈り物でもなく

親であれ自分自身であれ誰かのお金で買っているものである。

 

モノの価値と金額は必ず歩み寄り値が決まる。

 

高く払いすぎてはだめ。

安く売りすぎでもダメ。

 

ちょうど良い値段で自分に後悔がなく、楽しく消費できればさえいれば

買い物(入学)は成功なのではないか。

 

何に価値を感じるかは人それぞれだが、

その自分が何を大事にしているかを知る。それが大事。

 

 

 

って大学について考えるの

僕大好きです。

 

脈絡も整合性もないけど

それでも僕は楽しい。徒然ってなんていい響きなのだろうか。

 

言ってること

考えること

日によって違うけど

今は散々よりみちして思考がぐるぐるしていいじゃないか。

 

そうか

ギャップイヤーもここで生きてくるのか。

高大接続もここにかかわってくる。

じゃあ何のために・・・・?

あ、哲学だ。

社会はどうとらえているのか。

うん、社会学。

 

やっぱ全部つながってんなぁー

 

たぶんね、踏み込んだらスゲー世界待ってんじゃないかとわくわくするね。

 

 

あ、わかった。(豆電球ぴかーん)

 

 

ってそうなる瞬間が来るのかな。

 

たのしみー。

 

 

 

久しぶりの投稿がこんなんですいません。

 

 

 

 

「造り出す」ということ

いつの間にか私たちの生活は

造りだすという生活から消費するという生活にかわってしまっている。

 

かつては毎日の仕事が例えば農業のようにその日一日を生きるために

費やしてた時が、お金を稼ぐための仕事になって

お金を使ってものを手に入れるという仕組みになっている。

 

 

きっと戦前、戦後直後から、

先進国に変わりゆくその時にシフトしていった日々の生活。

 

 

僕はもったいない

と思うときがあります。

 

もちろんそれは

もうどうしようもないことで、この時代に生まれたからこの時代の流れに沿って生きるということはもう受け入れるしかないし、楽しむしかない。

 

 

でもやはり造り出すという行為はなんて素敵で尊いものなのだろうかと思う。

 

 

造り出すというのは毎日の生活で欠かせない行為

例えばご飯を作るとかも

食材を使ってご飯を造り出すということの繰り返しである。

 

 

造り出すということは以前よりもずっと少なくなってしまっているけれども

人が生きる上で必ず必要で生活を支えていてくれている。

 

でも、

安さを求めて、利益、効率を追求するこの社会では

それも億劫で買ってきたものをチンして食べるという

表面上の生活が主流になっている。

 

でも、些細な造り出しの連続、すなわちそれが普段生きるということの繰り返し。

 

人が毎日なにげなく生きる

これってもっと本当にそして本質的にすばらしく、大変で、そんでもって

とても美しい日々の営みであると僕は信じています。

 

また、確かに時間はかかるけれども、

安さを求めるならば、自分で造り上げた方がずっと安い。

そして、何でできているのかとか、自分の好みとかそういうのも表れてくる。

 

生活ってのは自分にフィットしていくのだと思う。

 

なんでもかんでも一回手作りしたい。

 

 

出来合いのものを手に入れたとき、

僕の目に映るのは、そのモノだけでしかない

でも本当はそれだけじゃない。

 

どっかの誰かが、育てて、作って、それを加工して、誰かが運んでくれて

多くの人々が関わりあってようやく僕の目の間に表れる。

 

もう、感動です。こんにちは。です

 

そういう感動をたまには感じてみるのもいいことだと僕は思います。

 

僕は今

授業で、バックを作ろうかという所存です。

 

かかるお金は1000円くらい。

それでもちゃんとしたものを作れる。

(僕に人並みの知能と、技術があれば)

 

教授は1000円あればスーツを作れるという。

 

 

いやぁすごいわ。

 

かっこいいよね。

 

 

家庭科ってのは

 

人生において一番学ばないといけない科目だと僕は確信してる。

 

社会において求められるのは算数(数学)国語とか英語、まぁよくいわれる

受験科目

でも人が人として生きるという面においては話は別じゃなかろうか。

 

自分が今着ている服、食べている食材、住んでいる家、

家族のこと、環境のこと、そして今、自分が存在して他者とかかわり合って生きていること

そういうことを知る、学ぶってマジでアツいことだと。

 

 

国語、算数はできなくても生きていける

でも

毎日の生活の仕方がわからないと生きていけない。

証拠は僕自身。

分数はわからないけどでも、ご飯は作れる

漢字はかけないけど、衣服などを作れる(ようになりたい)

英語はできないけど、他者とつながれる。

そして、自分を知れる。

 

日々の普通の生活を通して、自分を学べる。生きるを学べる

 

そういう思考のきっかけを子供たちに伝えられるのはやはり家庭科なんでしょう。

 

 

ないなら買う

ないなら造る

 

僕はできる限り造りたい。

 

「造り出す」

ってのは

僕が造ったものをあなたに差し出しますよと。

 

造って、あなたの目の前に出す

 

 

そういう感覚がわかれば、目の前にあるモノが

単なるお金を消費して買ってきたモノではなくなる

 

そう信じております。

 

 

 

最近、家の台所にはジャガイモしかない。って状況があった。

 

ということで

ご飯どーするー?と

ルームシェアの相方に聞いてみた

 

僕は、ジャガイモあるなら

ゆでて、ポテトサラダでもつくってみるかと思ってたら

 

相方は

 

「ジャガイモあるなら、ゆでてさぁー」

 

お、やっぱりそういう発想になるよなぁ。そうするかーと思ってたら

 

「バター塗ってジャガバターにしようよ」

 

 

その発想。出る?ふつう。

晩ご飯、じゃがバターって祭りじゃないぞ。

 

 

発想が輝いているのか、乏しいのか僕には判断できかねますが

 

ま、それはいいとして、

 

僕がいいたいのは

 

造る、造れるという考えがない人は

絶対的に造るという発想までたどり着くことができない。

 

 

数字を習ったばっかりの子が、

少数を考えつけないように

 

面積が2の正方形の一辺の長さを考えれないように。

 

でも、ルートってやつを一回知れば、経験すれば、

新しい世界がそこにあらわれる。

 

あぁ

日々をただ単調に生きるということが

何かを造り出して自分が生きているのだ

というように思えれば、ふつうの生活ってなんてすげーんだと

しることでしょう。

 

 

もっと、日々を愛していこう。

スローライフ

ディープライフ

を感じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「デザインする」というコト

この前、「自分をデザインする」という企画にお邪魔してきました。

 

かつて僕がこの企画に参加させてもらってからもうもう半年たつ。

あっというまです。

 

自分をデザインする

この企画は、言葉にして説明するということは非常に難しい。

ただ、面白い人が面白いことを通して何を学んだか、感じたか、自分に誰かに影響を与えたか。

そういうことをこう伝える、発信するという場を作りたいという想いから企画されたと僕はなんとなく思っている。

 

発表者は

自称、平々凡々で世界一周をした人

他称(てか僕がそう呼んでる)、信大の長老。

カナダに行ってたり

ピースボードのってたり

空き家を、もう長野市では誰もが知っているような気がするスペースに改修した人

そんなスゲーメンツに僕もお邪魔して話させてもらった。

 

そういう企画が、教授の目にとまって

今はその教授のゼミでやりたい奴がやって、今も続いている。

もう三代目くらいか。

 

なんかそうやって続いていくってスゲーことだなぁほんとにと思う。

 

 

ま、

それはいいとして、

 

そういうイベントやらなんやらでは

何かをやっているとスゴイっていうような風潮を感じるなぁ。

 

確かに、何かをやり遂げるってのはほんとにすごいことだと思う。

 

でも日々の日常を全力で愛し、楽しむってのもまたスゲーことだよねぇ。

 

家に閉じこもって掃除洗濯ご飯作る。

そういうのを楽しんでやれたらしあわせだよなぁ。

 

外に楽しみを見つける人

内に楽しみを見つける人

 

 

そういうもんだよね。

 

そろそろ

今という自分をデザインする

より

 

今からという

人生をデザインしていこうか。