中南米のひまじん。

不登校→大学院→青年海外協力隊→パナマ=ひまじん。スペイン語勉強中。そんな暇でしょうがないひまじんが、意識高いフリしてなんかする。

大学院生活。のこと

こんにちは。

とっっっっっっっっても久しぶりにブログを書こうと思います。

 

最後に書いたのが大学生時代で、

あれやこれやの間に卒業して、兵庫の山奥の大学院に入院しています。

 

同年代が働きだしました。

 

長野で僕におにぎりをくれ、

原付で車に喧嘩を売り、病院送りになり、

教師になるんだ!と沖縄を飛び出したものの

結局、教員免許は全然取れず、教師にならず

僕と様々な経験を積んだ彼は、

サラリーマン生活をしているらしい。

 

彼についてはまたじっくり書きます。

 

ま、なにが言いたいかって

時代の流れは早いですね。ってことです。

 

気づけば22歳と5ヶ月。

大人になりました。

子供の頃なんて自分が22歳になるなんて思ってもいなかった。

ずっと僕は小学生とかで死んでいくのかと思っていました。

ところがどっこい。もう22です。

 

あ、ちがうちがう。こんな話がしたいのではなくて、

大学院生活の話でした。

 

 

相変わらず僕は僕らしくやっています。

変わったところといえば敬語を使えるようになったこと。

 

でもそれ以外は僕のままです。

もちろん入学式は尖ったまんまで行きました。

マフラー巻いて私服で行って、

夏目漱石の三四郎を読んでました。

その結果あだ名が三四郎になりました。

僕の人生の中で一番気に入ってません。ふぁっくです。

 

院生室にこもるようになりました。

おかげで室長というあだ名がつきました。

僕の人生の中で割と3番目くらいで気に入ってます。

 

気がつけばもう7月。ちょっとずつ慣れて

友達も幾人かできました。ありがたいことです。

 

周りにはたくさんおもしろいやつがいます。

青年海外協力隊だったひと

記者だった人

教育に一切からんでこなかった人

そういった人たちといろんな話ができるのは

いいなぁ。と思います。

 

蜂がよく出ます。

僕が以前暮らしていたところでも蜂との熱い戦いが

繰り広げられていましたが、今回もまだまだ

蜂との関係はミツのままのようです(うまい)

 

教員採用試験、

みんな頑張ってます。

 

特に応援もしないですが、足も引っ張りません。

自分で頑張ってください。というスタイルは継続中です。

 

 

みんなこうやって将来のことのために頑張っていたり、

現段階で働いている人たちを見ると

すげーなぁ。と思います。

僕はまだまだ学生で、社会のぬるま湯、モラトリアムと比喩される

空間に身を置きます。もちろん年金も猶予です。

 

「どこでやるかじゃない。なにをやるかだ。」

これは僕の尊敬する人の言葉です。

その通りだと思います。

研究者の端くれの卵として

頑張ろうと思います。

 

おれのやる気は低気圧

これは、たいらくんの言葉です。

よくわかりません。

 

 

そんな感じで僕の日々は流れていきます。

淀んだり、増水したり、枯渇したり、

葉っぱが流れたり、ばしゃばしゃしたり

穏やかな流れじゃないかもしれないけれど

それでもどっかからどっかへ

流れていくのです。

 

それで

 

いいじゃないですか。

 

「仕事」のこと

あっという間に二ヶ月ぶりになりました。

さぼりました。すんません

  

さて、仕事についてなんですが、最近思うことがあるのです。

 

僕は今バイトをやめてまぁうだうだしてるのです。

まわりからニートかとか暇人だなってわいわい言われたりもする。

 

でもね、僕の生活は基本的に誰かのためにご飯を作って、掃除もしてる。

自分だけなら妥協してもいいんだけどちょいちょいといろんな人が来るからする。

誰かにあげようなんて思ってプリンやゼリーとかもふと作ったりする。

 

でね、考えてみたらこれってお金をもらってないだけで割と働いてんじゃないかと。

 

いや、これは単なる屁理屈を並べて自分を正当化しようとしてるんじゃなくて

もっと深い「仕事」について考えたいと思ってる。

 

仕事は誰のためにするのか?

 

という話はよく聞くかもしれない。例えば教師を目指す人は生徒のためだとか言うかもしれないし、他の人は自分の経験や学びになるかもしれないから自分のためとも言うかもしれない。

僕はどっちでもいいと思う。

情けは人のためならず

についても解釈が二つあるようにそれは自分なりの意味でいいと思う。

で、なにがいいたいかっていうと

正反対のことをいいながらも共通項があるよね

それは「〜のため」ってとこ。

つまり仕事とかそういうものはなんかの為にやってるんだということ。

自分でも家族でもどっかの誰かのためにする。いわばそれがやりがいってことにつながるのかもしれない。

そういうやりがいが無い仕事っては根本的に存在していないと思う。

しかしその人の意識でやりがいは消えたり、増えたりもする。

 

うーん

ややこしくなって来たから初心に戻る

 

つまり仕事ってお金をもらえばいいの?

 

機械のようにぼーっとただ、時を過ごす仕事と

お金はもらえないけど家族のためにせっせとご飯を作る

お母さんは仕事として認められないのか?

 

僕は仕事ってのはお金を稼ぐものとしてのモノではないと思います。

よっぽど主婦の毎日の仕事のほうがお金はもらえなくても価値がある。

 

お金よりも価値がある仕事。

そんな仕事をしたい。そんな風に向き合って行きたい。

今自分が目指してる職業にそんなふうに向き合えるのか日々模索中。

 

人生は急いでもいいけど焦るなって言いますけどその通りです。焦ったらもったいないぜ。

いろんな人の話や世界を聞いてみて、少しずつ選んでいきたい。生きたい。

 

すっきり。

 

 

 

「きまぐれ」のこと

チャリ旅で立ち寄った京都の大学。そこでやっぱり衝撃を受けた。

なんて楽しそうなんだろう。

タバコもバイクも車も

販売もギターも関わりもなんてフリーなんだ。

そういうのを通して

やっぱり大学って楽しくなくちゃ。と思った。

 

ということで自分の大学を考えてみた。

もちろん大学によってはルールも設備も環境も違うし、個人差があるからから一口にはいえないけど僕個人的にはあんまりおもしろくない。

教育学部しかいないし、みんな同じことやってるし。

 

なーんてことを思っていたけど

でも改めて考えてみれば面白いメンツそろっているよな。

音楽専攻がいて技術専攻がいて、数学から言語までいて

まさか教育学部のみという「それだけ」というものが捉え直すと「こんなに」にかわった。

いやぁおもしろい!

みんながそれぞれの味を出して共有してそれが循環したらむちゃくちゃ面白くなんじゃねぇの!?

音楽の人が歌を歌いだして、美術、技術がモノを生み出して、家庭科がおいしいもんつくって、言語が言葉を紡いで、数学、体育はなんかよくわからんけどのりに乗って

みんがそれを表現したらすげーワクワクするんじゃねぇかと。

 

あとは場だけ。

前置きが長くなったけど

ということでイベント(場を)を開く訳です。

 

あ、大学ってこんなことしていいんだ。

 

その単純なことが足かせになっているのではないか。

だから僕はこんなことをする。学務にも怒られる。

でも、やる。(ちゃんと許可ももらったよ。)

今は何あれ?となるかもだけど

だんだん日常化してきたら自然となにかをすることに抵抗がなくなって行くんじゃないかな。

そしたらきっと循環がはじまるのではないかな。

 

「0から1」

それがテーマ。

 

きれいな所にゴミは捨てないけど

ゴミが落ちている所には捨てちゃうでしょ。少なくとも抵抗は減る。

 

人は便乗するのが良くも悪くも得意でそれは集団心理が働くからなんだけども

ただ、一番最初に手を上げるのはなかなか難しい。

 

だから少しずつそういうのをおこがましいけど僕ができたらいいかな。と。

 

でもこんなカッコつけながらも

無理はしない。

気分が乗んなかったらやんないしめんどくさくもやらない。

義務感も感じなければ使命も感じない。

これで終わるかもしれないしずっと続くかもしれないし。

だって頑張る必要なんてないじゃない。金ももらえないしむしろ出費かさむし

 

楽しみたいの。それだけよ。

だから無理はしない。

 

だから

きまぐれ

なのさ。