中南米のひまじん。

不登校→大学院→青年海外協力隊→パナマ=ひまじん。スペイン語勉強中。そんな暇でしょうがないひまじんが、意識高いフリしてなんかする。

「教育」のコト

ちょっと硬い感じに今日は書きます

 

教育学部に入ったのは別に教師になりたいという理由ではなくて、

僕が在学時に感じていた

この世界は思った以上にクソッタレだ。

という想い

 

じゃあなんでそんな世界になっちまってんだ。

国を作っているとされているお偉いさん方がイカレている

じゃあどうしていかれたのか

そら、そういう人たちもかつては青年期があり、

教育を受けてそうなってしまったのだろう

ではどんな教育が実際にごく一般的に行われているのか知りたい

という

単純かつ、純粋な想い、疑問から教育学部の入学を決めたのでした。

どうせ行くならかくして一応教育の最高峰とか言われてる(てた?)

長野の信州大学

 

ということで決まりました。

 

実際に入ってみると

なるほどなぁと感じるところはあります。

 

でも、大学の授業で今の教育が

どうこうと語れる問題でもないとも思います。

 

大学で行われている授業がたとえよかろうが、悪かろうが

それがそのまま中学、高校と同じように扱えるモノでもない。

大学で行われてる教育と中高で行われている教育はやっぱり別物です。

 

もちろん、その大学を出たモノが、教師になって小中高の教育を行うわけであるからまったく切り離していいわけではありませんが。

 

でも、やはり感じるのは、大学での教員養成の授業の主眼は

やはり、「子どもへの教え方を身に着ける」ということが前提になっているような気がします。

僕は、教育における大前提は「なぜ、人間は学ぶのか」というところにあると思っています。

 

まぁそれはおいといて

 

 

たとえば文部科学省

(ガッツリはしょりますが)

勉強の意義を

 

日本のための人材を育てるとか。そんな感じのこと言ってます。

 

僕はその意識にひっかりります

 

「人材」

 

人格でもなければ、人類でもなく

人材。

 

音の響きからしたら

 

明らかに道具として存在しているような

そんなイメージを持たせます。

 

小さなことかもしれないけれど

でも、そのニュアンスはどこかで必ず生きていると感じます。

 

人を人として育てるのではなく、人材として。

だからこそ、点数序列という考え方に達していても不自然はないのだなと。

 

知識を詰め込む。国が決めた学習指導要領にどの程度届いているか

というテスト。

 

それがみんなが求める形なら、今の教育は全く間違っていないということになりますが、その形を僕を含めた幾人かは疑問を感じているのではないか、と思う。

 

僕は学び(勉強ではなく「学び」を使います)の意味は決して

国のためだけのためにあるものだとは思いません。

 

めぐりめぐって国の発展につながるということはありますが、決して直接的な道筋ではないと。

 

教室での授業は点数を取るためにあるのではなく、国の定めたことを覚えるのではなく

他者、そして自分を深めていく

そしてお互いに人としての大切なものを身に着けていく

そういうもののためにあるのではないかと。

 

そういう自他との交流、発見、つながり

そういうものに主軸を置くべきだと思います。

 

僕の在学していた

自由の森の教員は

 

教師とは国が定めたモノをいかに面白く、そしてわかりやすく子どもに伝えるか

ということに重点を置くが

あくまで、なぜ、それを教えるのかという疑問を放棄しがちである

 

と言っています。(僕の言葉で表現したので多少の誤差はあるかもしれません)

 

それはその通りだとおもいます。

 

大学の授業でも教え方のテクニックや、評価の仕方などを教わることが多いが、

 

なぜ、それをおしえるのか

という根本的かつ、きわめて重大なことを考えなくてはいけないのではと思います。

 

 

よく、学びは一生続く

と人は言いますが

はたして今の学ぶ者の学びは続いているのだろうか。

 

テストが終わってそれで

おしまい。

 

ということがあるのではないでしょうか。

 

 

たとえば、全国学力一斉テストで

こんなことがあったそうです

 

最初44位だったある小学校が

そのテストのため

勉強を詰め込み、勉強できない生徒を休ませたり、教師がさりげなく答えを教える

などをして

 

全国で一位を取りました。

 

しかし、次のテストでは

最下位なった

 

 

この現状があるということは

本質的な学びの意味を子どもたち(そして教師たち)は理解していないということが容易に想像できる

と思います。

 

 

教育、教師、勉強、学び、そして学校

 

これらのことを本質的に考え、疑問を持ち続ける

ということを

放棄してはいけない。

 

そう僕は思います。

 

 

当初と

結論がバラバラになっちゃいましたが

 

それでも

 

まぁ

ちょっとでも伝わってくれればいいかなと

思います。

 

 

 

 

 

 

メールのこと

僕は最新の携帯とか、アプリとかそういうのを持っていないから

みんながやっているラインとかそういうのがよくわかりません。

 

僕はメールが好きです。

電話よりも

ラインよりも。

 

 

古き良き時代。

そういうのが今まさに感じられるのではないでしょうか。

 

 

お前、好きな子だれ?

 

そう送ってから受信までの

長い長いひと時。

 

 

他のことしてようと気を間際らせるけど

常に携帯を監視中。

 

受信して

 

パカって携帯を開くときのわくわく感。

 

そういう時に限って

お母さんが「今日帰ってくるの?」とか送ってくる大きなおせっかい。

 

ショックはでかい。

 

 

今はもうなかなか見ないけど

 

閉じた状態で受信すると

小さな液晶に

 

Eメール受信

〇〇

 

 

って名前が出る。

 

Eメール受信って出てる時に開けばいいんだけど

あえてそのディスプレイに名前が流れるまで待つ

あの無意味な焦らし感

 

 

そして

メール上での好きな子との

ネゴシエーター並みの

会話術。

 

うまくカマをかけたり

相手からの文章を相当無駄に深読みしてしまう。

自分の文章も相当見直す。

そして何回も作り直す。

 

そして

極めつけは

 

送信ボタン押して

 

送信中・・・・

送信中・・・

送信中・・

送信ちゅ電源ボタン連打。

まさかの送信キャンセル。

そして再び文章を手直し。

論文並みに頭を使う。

 

 

たまに

電源ボタン連打しても

送っちゃてた時。

 

うわぁ!!!

 

とか思いながらも

内心

 

ま、いっか!いったれ!!むしろ携帯ナイス。

 

とか思う天邪鬼。

 

話題が増えてきて

6っこ位の段落にちゃんとがんばって返事したのに

 

返信で話題が3つくらいに減っているときのせつなさ。

 

 

 

常に携帯チェックしないといけないから

ポケットに入れておく。

 

あ、なった!!

と思ってうれしく携帯を開くと

なんも来ていない。

 

確かに鳴ったと思うんだけどなぁ。。。

 

という幻聴。

 

 

 

返信は

急がないほうがよい。

 

というどっかの恋愛雑誌に載ってそうな時代遅れのアドバイスに

乗っかって

 

あえて

受信してから、返信まで時間を置く。

 

もういいかな。送ろうかな。まだ早いか。もうチョイまとう。

というドMな時間を過ごす

 

 

でも結局返事はもう頭の中で考えてるから

携帯手に取ったら返事を書き込むスピードが異常に早い。

 

 

 

夜返信して、

 

なかなか返事が来なくて

うわぁ。ちょっと変なこと送ったかなぁと

自分の送信済みメールを見返す

こうしとけばよかった。という後悔。

 

というのと

返事くれない相手への理不尽な怒りを感じ

 

眠れなくなる。

 

ただ、次の日の朝。

 

ごめん!寝ちゃってた!

 

とか来ると、全部忘れて

 

全然いいよ!つか俺もすぐ寝ちゃったし 笑

 

とかいうなんだかよくわからない嘘をつく。

 

 

楽しいメールが続いてると

 

 

ふとした時

ひたすら受信ボックスを見てニヤニヤする。

 

 

受信ボックスがあの子の名前でいっぱいになると

なんかスゲー悪いことというか秘密ごとをしているような気になってしまう。

 

友達に携帯は貸せなくなる。

 

貸しても常に監視中。

 

すぐ返してとかいっちゃう。

 

無駄に受信ボックスにロックかけてしまう。

 

いい感じにやり取りをしてて

普通に送信して

返事か来なくて

来ないなぁとか思ってて、学校で出会ってしまったあの気まずさ。

 

返事を待ってるなんて言えない。チキン。

 

 

また、調子のったこと送ってしまって

学校で妙に恥ずかしくなる。

 

 

 

メールではあんなノリがよかったのに

 

学校では別人だな。と感じる瞬間。

 

 

 

という

止まらないあるあるが

そこにはあるのです。

 

 

僕はやっぱり

最新のシンプルかつ早く、便利なアプリより

 

そういうちょっと不便を

味わっていきたい人間なのです。

 

 

でも、どれか一個くらいは共感するでしょ?

 

 

 

 

 

よる。のこと

一番好きな時はいつ?

って聞かれたら僕は夜だと思う。

 

もちろん

春の朝とか、風が気持ちの良い朝は好きだけど

それでも僕の生活に「夜」というのは絶対に欠かせないものなんだろうなとも思う。

 

 

周りが暗くなってくると

 

少し寂しい気持ちになる

 

 

たとえば夕方と夜のちょうど境目の空を見たときって

 

誰でも少し不思議な気にならない?

 

あぁ

おわっちゃうー

というかなんというか不思議な気持ち。

 

 

でも僕はそれが好き。

 

深夜になればなるほど好き。

 

朝のあわただしさとか、

昼のうっとおしさから逃れたような。そんな気になります。

 

 

でも一番好きな理由は

自由になれること。

 

いや、何言ってんだコイツとか思わんといてください。

 

 

眠れない夜とか、ベランダに出ると

もう、ほんとに誰もいないような気がして

僕は自由を感じるのです

授業のこととか、バイトのシフトとか、そういった日常を彩る様々な部分が

削げ落ちて、なんか本当に本質があるような。そんな気にさせます。

そういうときは自分に向き合ってみる。

 

 

自分のこととか、周りのこととかこれからのこととか

どうせろくなことが浮かばないんだけど、でもなんでも考えていいし、時間も止まってる。

すげーいろんなこと考えて自分がダメだなぁとか思うけど

あんなことしたいこんなことがしたいと思っても

どうせもう少ししたら朝が来てまた変わらないいつもの日常がはじまるのか

とかも考えて

 

気分は落ちていく。

 

 

でもそれが僕の生活を支えているともいえる。

 

 

 

話は変わるけど

 

どっかで聞いたんだけど

 

夜の路上は人の心を裸にする

って

 

確かに

 

って思わない?

 

修学旅行の夜とか

キャンプの夜とか

 

ついつい

 

なぁなぁお前誰好きなん?

 

実は・・・

 

 

えぇぇぇえ!!お前あいつがいいの!??

 

いや、違うよ!!ちょっと気になってるだけ!

 

実は俺も・・・

 

みたいな感じがあるでしょう。

 

やっぱりあれは夜だからだと思うのです。

昼間からごろごろしてやってごらんなさい。

 

すげーびみょうだから。

 

 

夜になると

誰かの目とか、ルールとか、僕らが生きて生かされているその日常の制約から

放たれて(考えなくても済んで)人は自由になるのです。

 

だから僕は夜が好き。

 

 

そういうくそったれな自分が自分自身だと思って

愛してあげるのです。

 

ただただ

ぼーっと(精神的に)寒い夜を過ごして

 

本読んでもいいし、

ごろごろしてもいいし

がんばって大学のレポート仕上げてみたり。バックれてみたり

考え事しなくてもしてもいいし。

すべてが許されてる

 

なんて優しいのかと。

 

 

そう、優しさ!

 

 

僕は夜に優しさを感じる。

 

自分の中の暗い、黒いところが

同じくらい暗い夜空が吸い取ってくれるような隠してくれるような。

そんな気にさせてくれる。

なんてやさしいのだろうか。

 

すべてが夜の静寂と混沌にぐちゃぐちゃ混ぜられて

よくわかんないものが生まれんで朝には消えて。

 

 

でもそういう残らない優しさが確かにあるのです

 

 

そうか。書いてて納得。

 

夜ってやさしいな。

 

 

 

そうか

だから僕は夜が好きなんだ。

 

 

 

ぐわぁーーっと生まれて

すぅーっと消えて。

 

 

でも、次の日の朝の僕は間違いなく寝不足になる。

 

 

 

 

だからまた夜が恋しくなる。

 

 

 

まっぴるまの青空に月が見えると

 

ふふ。みつけた。

 

って笑いたくなるのはなんででしょう。