中南米のひまじん。

不登校→大学院→青年海外協力隊→パナマ=ひまじん。スペイン語勉強中。そんな暇でしょうがないひまじんが、意識高いフリしてなんかする。

僕の大いなるひとりごと part4 虚構のリアリズム編

             大いなるひとりごと part4

            —虚構のリアリズムについて−

これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。興味のない人は裏紙にして地球と仲良くしよう。

 

 この前、面白い話を聞きました。とある4才くらいの女の子がトイレには小人がいると言うのです。そして、小人はいい匂いで花柄のトイレットペーパーがあるトイレにしかやってこないと言うのです。この女の子は小人をまるでどこかで見たかのようにリアルに語ります。

 さて、人がリアルだと感じるのはなぜでしょうか。昔読んだ虚構のリアリズムという本を思い出しながらちょっとつぶやきたいと思います。例えば、ジュラシックパークや戦争映画などを僕らが見た時、僕らはリアルと感じるでしょう。実際に恐竜を見たこともなければ戦争に行ったこともないにもかかわらずです。不思議ですよね。きっとそこには作り上げた(作り上げられた)いわゆる虚構=イメージが存在し、そこに現実世界を寄せているという逆転的な思考があるのではないでしょうか。 

 

日本人がルーブル博物館などに行ってそこにある絵をみる時に、その絵を楽しむのではなく、あ、本当にこの絵があった!と実際に確かめることの方が大きな喜びを生むのだとどっかで聞きました。似ていますね。僕らの頭の中には「これはこういうもの」というイメージ=虚構のリアルが存在しているのではないでしょうか。もし、実際にサンタに出会った時、スーツを着ていたらおそらくギャップを感じるでしょう。それどころかこれはサンタではないと否定すらする可能性もあります。

 

本の著者は受け手が受け取るイメージは、手の平で砂をすくい取ることだと比喩しています。すくい取る際に、大事な要素はこぼれ落ち、残った洗練されたイメージ(エッセンス)のみをそのものとして、リアルとして認識してしまう。しかし、こぼれ落ちた砂の中にこそ、兵士の血の匂いや、恐竜の吐息があるのです。つまり、信じるというのは本当にその実物を信じているのか、残された強烈なエッセンスを信じているかを吟味する必要がありそうです。肝はそう簡単に信じるなってことですかね。

 

しかし、虚構だのイメージだのとこんなこと言いながらも、結局、僕は女の子が小人を信じていることを子どもらしいと愛おしく思います。矛盾です。でももしかしたら、子どもがそんなふうに空想を信じるものだ、ということさえも作られた虚構のリアリズムかもしれません。何かを研究する際にも時折、自分の手の平を見て、こぼれ落ちている砂はないか見てみるのも大事ですねと、なんとなくそれっぽいことにこじつけておわります。

 次回は「価値観」についてか、「わかりやすいとわかりにくい」についてです。

ぼくの大いなるひとりごと。PART 3

 

               ~「考える」を考える 編~

         

 これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。特に興味のない人は紙飛行機にして憂鬱と共に投げ捨ててください。

 

 昔、テレビかなんかで「会議室で話されていることの7割くらいは無駄だ」という言葉を聞いたことがあります。だとしたら会議室の本末転倒感は凄まじいことになりそうです。   

 また、日本語には「机上の空論」という諺があります。どうして机上なんでしょうね。基本的に人は机に向かって学習をし、思考するという文化があるのにかかわらず、です。  

広辞苑によると「机上で考えただけで、実際には役に立たない案や意見」とあります。なんだか会議室のくだりと関連する部分がありそうです。

さて、人類にとって、「考える」という営みは人類たる証拠であるとも言えます。「我考える故に我あり」や「考える葦」など数々の歴史が考えるという営みを評価しています。

 僕が「思考の整理学」という本を読んだ時に知ったのですが、中国では古くから人がモノを考えるのは馬上・枕上・厠上(いわゆる三上)が良いと言われていたみたいです。つまり移動中、寝る前もしくは起き抜け時、そして用を足している時。なんだか分かる気がしますよね。

しかし、この三上に机がないというのも非常に興味深いことです。古今東西、机の上での思考は役立たずである、ということなのでしょうか。

では、ここで疑問ですがなぜ、三上があの三つなのでしょうか。机上との差は何なんでしょうか。共通項を見つけると見えてくるかもしれません。ちょっと考えてみましょう。

 一例として、机や会議室は思考することが目的として成り立ってますよね。さらにそのために雑音がないように壁を厚くしたり、喧騒から離れた場所に設置したりというおぜん立てをいろいろしているわけです。逆に言うと三上は移動すること、寝ること、用を足すことがメインであって思考をメインにしてません。このことから考えるは、考えるという行為を脇に置いている時に絶大な効果を生むのではないでしょうか。ぼーっとしている時にひらめくというのはよくある話ですよね。また、アメリカではビジネスマン同士の仕事の話はカフェでやることが多いと聞きます。それは雰囲気や、満腹時のリラックス効果によって良い交渉ができるからだと言います。そこからも思考は強制されるとうまく機能しないのかもしれません。よくクイズ番組で簡単な問題なのに制限時間というプレッシャーに負けて答えられないシーンがあります。あれも同じことでしょう。机の上も会議室も考えなくてはならないという強迫観念が内在しているのではないでしょうか。北欧の教室も、もしかしたら関連があるかもしれません。思考は強制されるものではないのですね。

以上、考えることを考えてみました。今回はいつにもまして脈絡のないひとりごとでした。すいません。次回は虚構のリアリズムについてです。

大いなるひとりごとPART2 神さま編

            ぼくの大いなるひとりごと。PART 2

               ~神さまはいるのか~

              

 これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。特に興味のない人は読まずに燃やしてファームの肥料にして下さい。

 

 さて、今回は神さまという特に結論もない話なのでひとりごとにはうってつけですね。ぼくは神さまを信じていません。しかし、僕の知り合いにキリスト教の方がいます。それで日常的に神さま論争が勃発し、ケンカになります。神の話題でケンカが起きる。まさに世の中の縮図ですね。

まぁ、それはさておき、本当に神さまはいるんでしょうか。

 デカルトがこんな質問をあなたに投げかけます「あなたは完全か?」それに対し、あなたはどう答えるでしょうか。

おそらく「不完全だ」と恥ずかしげもなく答えるでしょう。するとデカルトはこう言います、「不完全ということは、相対的に完全なモノが存在するということだ。よって神はいる」と。なるほど。

ぼくはデカルトを読んで以来、神さまいるじゃん!と思いました。

ですが、「神は死んだ」でおなじみのニーチェはだいたいこんな感じのことを言います「悪からもっとも離れた私たちは善である。という思考(いわゆるルサンチマン)は人間の弱さが生み出す虚構である」と。

かつてキリスト教信者は社会的弱者でした。そこでその人たちは今、貧しくつらいから天国に行ける。権力持ち、金持ちは悪だから私たちは善だ。という反転した思考を用いて自己を保っていたみたいです。

さて、ここでデカルトに戻りますが、先ほどの不完全があるゆえに完全があるといった理論もこれに当てはまるのではないでしょうか。だとすると不完全を認識したからといって完全が存在するとは限らないと考えることもできそうです。

ニーチェを読んで以来、僕は神さまやっぱりいねぇじゃん!と思うようになりました。

 

しかし、最近思うのです。神さまの存在を信じることと、神さまを信じることは違うのではないかと。存在として、確かにいるかもしれません。だとしても、それによって自分の行動が何かしらの変化が起きるわけではない。

つまり、存在としてBelieve (信じる)と自分を預けるTrust(信用する)には差異があるのではないかと考えました。

あと、このように話題に挙がるということはすなわち概念としての神の存在は疑いようのないことだと言えます。つまり、「ポロリンクス」(今僕が適当に作った言葉)は議題に挙がることもなく、議論の対象になることはないのです。すなわち認知もされないモノはすなわち無なのです。存在しないのです。なので、神さまはそういった意味でこの世界にいることは間違いないです。認識されている時点で想像上のモノだとしても存在は確定しているのです。不思議ですね。まぁ、パスカルも「考える葦」で人は物理的には地球の一部分にしか過ぎないが、精神的にはこの宇宙をも包み込むことができるみたいなこと言ってたので、神さまを越えることも可能なんですよね。ま、結論としてよくわかりません。

以上です。さて、次回は「考える」を考える、についてひとりごとです。

 

 

追記

最近分かったこととして、結局僕の議論は

ハイデガーとかの存在論。

いわゆる存在としての存在と認識としての存在

という観点に還元されそうですね。

ま、どうでもいいことですけど。