中南米のひまじん。

不登校→大学院→青年海外協力隊→パナマ=ひまじん。スペイン語勉強中。そんな暇でしょうがないひまじんが、意識高いフリしてなんかする。

「あ、、、僕がしたかったのはこういうこと」のコト

 

つい先日、大阪にある

素敵なフリースクールに行ったのです。

 

自分の研究に関連するのも一つの理由だけど、

改めてフリースクールというのを見てみたかったのです。

 

んでね、まぁ、いろいろなコトがありました。

いろいろな子どもに会えました。

いろいろなお話を聞けました。

 

今回はその中の一つのおはなし。

 

 

僕が学校(フリースクール)見学させてもらう時に

1家族も一緒だったのです。

子ども(中1)とその両親。

 

まぁ、特に何かを話すコトもなく

この子もしかしたらフリースクールに入るのかなぁ。。。

くらいに思ってました。

 

でも最後に、フリースクールのスタッフの方が

「キクチさん、そういえばフリースクール出身でしたよね

なにかあれば・・・」

と話を振られたのです。

そしたらもう家族がすごい食いついてきて

え、そうなんですか!?って。

 

「いやぁ、実はそうなんです・・・」って。

 

ということで

ちょっとだけ僕の人生を話させてもらって

んで、

結局伝えたのは

 

不登校だってだけで

そんなに否定的にならないでほしい。

 

少なくとも僕にとってあの時の経験は、

大切なものになっている。

そして確実に今の僕の糧になってる、プラスに働いています。

 

だから、どうか自分を責めないでほしい

だから、どうか息子さんを責めないでほしい

ネガティブにならないでほしい。

人生は今決まるんじゃなくて、

この先の長い人生で決めながら生きて行くんだと思います。

だから、きっと大丈夫ですよ。

少なくとも僕よりは立派な人間になれますよ。

大丈夫です。

 

ってお話をしたら

まぁ、お母さん泣いてしまって。

 

お父さんも子どもさんもすごい話を聞いてくれて。

 

ありがとうございますって。

安心しましたって。

ずっと不安だったんですって。

希望になりましたって。

 

そう言ってもらって

僕はあぁ、そうだよなぁ。僕がやりたかったのは

修論を書くコトとか、大学院を卒業することとかは

あくまで過程であって目的じゃないよなぁ。。。

 

最後にはこうやって悩んでいる人、不安に思っている人に

大丈夫ですよ。って言ってあげることだったんだなあ。。。って

 

改めて初心に返った気になりました。

 

そのあと少しだけ家族の話を聞いて

もう一度ゆっくりお話させてくださいって言われてこちらもぜひ!って

連絡先交換してその日は別れたんだけど。

 

 

なんだか、あぁ、自分の経験とか、考えとか

そういうのが自分だけで完結するんじゃなくて

誰かのためになって、それで泣くほど喜ばれて

そして繋がっていく。

 

この感覚はなんだろう。

とても嬉しい。

 

ちょっとだけ、自分が自分でよかったと

思えるそんな出来事でした。

 

 

 

ちなみに、フリースクールにいる

女の子が

将来先生になりたいって言っていて

どうして?って聞いたら

だって、学校の先生って偉そうで子どもを子ども扱いして

いつも正しいって顔しているのが気に食わない。

私が先生になって変えてやるって言っていて

 

 

なんてこった。

こんなかっこいいやついるんか。

参りました。

 

 

大人も子どもも関係ない。

そこにいるのは

ただの人間と人間なんだよな。

 

「15年前のぼくと、まだ見ぬ誰かに伝えたいこと」のコト

 

ようやく、紀要論文が完成しました。

ちなみに兵庫教育大学紀要第49号に載る可能性が高いらしい。
タイトルは「LINEスタンプを用いたコミュニケーション特質」です。教育関係ないじゃんって言われればそれまでですが、まぁ、そんなことは別にいいじゃない。
一応共著です。
調査はみんなでやりましたが、
草稿、原稿、修正を担いました。
あ、別に「凄いでしょう。頑張ったでしょう!苦労もしたんだよー!」ってことをアピールしたいのではなくて目的は20行くらい下に書いてます。
 
でもちょっとくらいその苦労や頑張りを自慢させてください。
ぼくだって欲張りな人間です。
 
執筆活動は本当に大変で、妥協してたり、くじけそうなとき、NHKの番組「プロフェッショナル」(ある作曲家の回だったんですが)で、「ぼくには才能なんかない。世の中の人みたいにインスピレーションで曲を書けたり、ある日にあ!って浮かんでくることなんてない。答えは目の前にあって、どれだけそれに向き合えるかだ。いつもぎりぎりのところで苦しんで戦っている。僕は作曲家じゃなくて努力家だ」(だいぶ菊地訳が入ってますがだいたいこんなこと言っていた)
という言葉に心をビンタされ
 
その日から来る日も来る日も書いては直し、書いては直し。
向き合って苦しんでようやく。
本当にようやくここまできた。
 
執筆を始めたのが2月くらい。
でも研究としては10月から始まって、どうにか締切の前日に書き上げることができました。書き直した回数なんて覚えちゃいない。
ジョジョで例えるなら「貴様は今まで食べたパンの枚数を覚えているか」(主人公のジョジョの「今まで何人の人を殺してきたんだ」という質問に対してのDIOの回答)
 
という感覚です。わかります。DIOさんその気持ち。
まぁ、それはいいとして、
 
論文としてのクオリティは正直言ってそこまで
高くないと感じています。
だけど、自分の人生の中でこんなにひとつのことに
向き合って戦って苦しんだ日々は初めてで
完成した時のあの充実感ったらもう。ニヤニヤしちゃうやん。
 
でもそんなことはどうでもよくて(ようやく本題)
 
僕がこの執筆の話を受けたのはもっと別の理由があって
それは僕の過去にもつながるものであって。
 
前も書きましたが、
僕が大学院にいることは自分の人生の中でひとつの
意味をもつのです。それは学校に行かず、引きこもったり、フリースクールに行ったりして
中高も自森という環境で過ごした自分。
少なからず学歴とか、学力とかそういうものは僕の大きなコンプレックスでもあります。でも、そんなぼくが
最高学府である大学院修士(もちろんこの上には博士もあるのだけど)まできて、そしてひとつの小さいけど紀要論文を書くという確かな実績を残せたこと。
 
ようやく言えます。
 
家に引きこもっていて強がりながらも内心自分はダメなやつだと思っていた15年前の僕。大丈夫だったぞって。
以外とやれたぞって。だから安心しろってタイムマシーンがあれば
伝えに行きたい。
 
そんで、世の中の僕みたいな誰かにも伝えたい。
こんあアホな僕だけど、やれることがあって、社会に自分を刻むことができる。だから余裕でできるぞ。だから大丈夫だって。
落ち込まなくたっていい。
 
今まで口ではこんなこと言ってきたけど、
ようやく形あるものとして、背中で言えるようになったなぁ。
 
小さなことだけどおおきなこと。
 
ようやく自分のコンプレックスとか、自分の過去にニッコリと笑えそうです。もっと自分を愛せそうです。
 
分数のできない大学生を卒業し
分数のできない大学院生としての自分
でも、そんな自分も悪くない。
 
そんなぼく、就活始めました。
とってもおもしろそうなとこに。
 
そんなぼく、少し挑戦しています。
大学の時に夢見てあきらめたことに。
 
就活のこととか、挑戦のことは
また、いつかの機会に。
 
 

僕の大いなるひとりごと part4 虚構のリアリズム編

             大いなるひとりごと part4

            —虚構のリアリズムについて−

これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。なので、先行研究や学術的根拠はないです。興味のない人は裏紙にして地球と仲良くしよう。

 

 この前、面白い話を聞きました。とある4才くらいの女の子がトイレには小人がいると言うのです。そして、小人はいい匂いで花柄のトイレットペーパーがあるトイレにしかやってこないと言うのです。この女の子は小人をまるでどこかで見たかのようにリアルに語ります。

 さて、人がリアルだと感じるのはなぜでしょうか。昔読んだ虚構のリアリズムという本を思い出しながらちょっとつぶやきたいと思います。例えば、ジュラシックパークや戦争映画などを僕らが見た時、僕らはリアルと感じるでしょう。実際に恐竜を見たこともなければ戦争に行ったこともないにもかかわらずです。不思議ですよね。きっとそこには作り上げた(作り上げられた)いわゆる虚構=イメージが存在し、そこに現実世界を寄せているという逆転的な思考があるのではないでしょうか。 

 

日本人がルーブル博物館などに行ってそこにある絵をみる時に、その絵を楽しむのではなく、あ、本当にこの絵があった!と実際に確かめることの方が大きな喜びを生むのだとどっかで聞きました。似ていますね。僕らの頭の中には「これはこういうもの」というイメージ=虚構のリアルが存在しているのではないでしょうか。もし、実際にサンタに出会った時、スーツを着ていたらおそらくギャップを感じるでしょう。それどころかこれはサンタではないと否定すらする可能性もあります。

 

本の著者は受け手が受け取るイメージは、手の平で砂をすくい取ることだと比喩しています。すくい取る際に、大事な要素はこぼれ落ち、残った洗練されたイメージ(エッセンス)のみをそのものとして、リアルとして認識してしまう。しかし、こぼれ落ちた砂の中にこそ、兵士の血の匂いや、恐竜の吐息があるのです。つまり、信じるというのは本当にその実物を信じているのか、残された強烈なエッセンスを信じているかを吟味する必要がありそうです。肝はそう簡単に信じるなってことですかね。

 

しかし、虚構だのイメージだのとこんなこと言いながらも、結局、僕は女の子が小人を信じていることを子どもらしいと愛おしく思います。矛盾です。でももしかしたら、子どもがそんなふうに空想を信じるものだ、ということさえも作られた虚構のリアリズムかもしれません。何かを研究する際にも時折、自分の手の平を見て、こぼれ落ちている砂はないか見てみるのも大事ですねと、なんとなくそれっぽいことにこじつけておわります。

 次回は「価値観」についてか、「わかりやすいとわかりにくい」についてです。